Twetterで「98歳認知症は治療不要でよくない?」的なTweetを目にした。
医療者として働いていると、そういう気持ちになるのもわかる。
「正しい」とか「間違え」とかではなく、
何を「基準」としているかによると思う。
『年齢』に基準を置いているなら
「80歳以上は心外(心臓血管外科)の手術はしない」と言いやすい。
手術をすることで合併症による「死」というリスクを盾にして説明する事もできる。
さまざまなデータから「助かる率」より「死ぬ率」が高いなら、
どちらにとってもメリットは少ない。
「感情」を抜きにすれば、やらないほうがいい。
「1%の可能性があるなら・・・」という御家族もいるので、全てとは言いにくいのだが。
ただ、近年は高齢化社会となり、90歳以上の患者~100歳以上の患者も珍しくなくなった。
90歳代での手術も目にするようになった。
年齢で判断するのが難しくなってきた。
『認知力』に基準を置いてみるのはどうだろう?
これを基準にしてしまうと、生まれつき「脳に障害がある人」はどうなるのか?という壁に当たる。
「治療しない」などと言うと批判が殺到するのは自明である。
では、『年齢』と『認知力』の組み合わせでは?
冒頭の問題だが、この場合、「他の要因」に左右されるのではないだろうか?
「家族が望んでいる」(「気持ち」以外にも「年金」など、さまざまな背景があるだろうが・・・)
「病院の体制」(医療体制は「資源」でもあり、限られているものだ)
「医師の判断」(意外とこれは大きい)
ここで違和感を感じるのが、「患者本人」は要因に入りにくいという点。
周囲の人間が決めているパターンである。
実際、このようなケースは多い。
社会的には「働けないので、納税できない」
「医療費は使う」
「手がかかる(マンパワーを多く必要とする)」
という意味では「お荷物」と思われても仕方がない。
それでも・・・というのが「人間社会」の考え方であり、
それが「倫理」である。
つまるところ、医療者に選択できるカードはない。
声をあげたり、考えるだけムダなのだ。
私たちは社会の中で生きている以上、社会のルールに則って過ごすしかない。
「価値がない」と考え、その人を殺せば「犯罪者」になる。
数年前に「障害者施設」の患者を次々と殺した殺人犯がいたが、
極端に考えると、あのような行動に行き着いてしまう。
今の社会ではあの行為は「犯罪」である。
くだんのTweet「98歳認知症は治療不要でよくない?」に対する私の答えは「どうでもいい」だ。
「良い」という人もいれば「悪い」という人もいるだろう。
騒ぐだけ騒いでも、誰にも選択のカードは回ってこない。
せいぜい「賛成派」と「反対派」が言葉のゲームで反論し合うだけだ。
(それを見て楽しむのも良いかもしれないが・・・)
決めるのは私たちではないし、これから先も決まらないだろう。
そういう事を言いあうより、もっと他の事に時間を使った方が良い。