看護学生が看護師になる日
昨日3月25日は看護師国家試験の発表日だった。
合格して喜ぶ人、不合格になって悔しい思いをした人
コロナに感染(または濃厚接触者になり)、受験さえできなかった人・・・
今年受験した人は、複雑な思いを抱きながら過ごしたと思う。
看護師になる人は「誰かの役に立ちたい」という想いを持っていると思う。
全員では無いかもしれないが、多くの人が『役に立つ』という喜びを知っている人だと思う。
看護学生とのやりとり
半年ほど前になるが、カンファレンスの中で看護学生と話す機会があった。
『お風呂に入れていない患者さんをお風呂に入れたい』という強い思いが学生にあった。
「入院してから10日以上、お風呂に入っていないんです」
「患者さんは『入りたくない』と言っていますが、お風呂に入れて爽快感を味わってもらいたい」
という趣旨の話であった。
この手の話は、看護師なら誰でも耳にしたようなケースであり、
「患者さんが望んでいないのに、入れるべきか」
(「入りたくない」という患者さんのニーズを優先すべきである)
「衛生上、感染面からも入ったほうが良い」
(私たち専門家がアセスメントした結果、こちらがベストである)
という意見が交わされる。
ここで私が学生に投げかける言葉は、
『説得せずに、納得させること』である。
これだけ聞けば、「は?」「どういう意味?」と思うだろう。
「看護をさせて頂く」ということ
私たちは看護を「してあげている」のではなく、
「させて頂いている」という感覚をどうやって知るか・・・という点はとても大事である。
「そうは言ってもね・・・」と思う人も少なくないかもしれない。
私が学生に問うのは、
[st-kaiwa1]わかりました
それでは、私が今からあなたをお風呂に入れてあげます」
「実習で汗をかいたでしょうし、きれいになってスッキリしますよ」
「午後からは良い匂いで実習ができますよ」
と言ってみる。
私にお風呂を入れてもらいたい人がいるだろうか?
誰もいない。
なぜ??
お風呂に入るのは気持ち良いはずなのに、なぜ嫌なのか?
人間は他人から施されることを「心地よく」感じないのである。
しかし、人に施すことを「心地よい」と感じる傾向にある。
この事は、さまざまな研究結果でも明らかにされている。
私たちがどれだけ「正しい」ことを「専門的知識」を持ってやろうとしても、相手は納得しない。
「確信犯」に近い考え方と言われても仕方ない。
だから私たちは、患者さんに「お願い」しないといけない。
他人にケアされるのは嫌でしょうが、そこを何とか、させて頂けないでしょうか?
とお願いするのである。
「看護をさせて頂く」という感覚を知らない看護師ほど厚かましくなる。
「上から目線」になり、患者に抵抗される。
そして、挙句の果てに「扱いにくい患者」を増やしてしまう。
『自分の態度』が『患者の態度』を変えている事に気づかずに看護を行う事は、お互いにとって心地よいものではない。
看護は「させて頂いている」という思いを持って看護を行えば、本当の意味で感謝される。
エキスパートナースというのは、そういう事を理解でき、実践できる人なのかもしれない。