先に言っておくが、「勤労感謝の日」の事を書くわけではない。
ある本に書いてあった文が「仕事」について的を得ていたので紹介したい。
先日記事にした「承認」と「仕事」の関係である。
最近よく、Twitterで「仕事をしたくない」「行きたくない」という文をよく目にする。
「身体がだるい」のは年々感じるので、わからないでもないが、「仕事に行きたくない」とは別である。
シェイクスピアの「テンペスト」の中にはこうある。
仕事とは、スポーツのようなものだとも言える。
負けたからって、まさか命まで取られるわけじゃない。
「スポーツには苦痛が伴うことがあるが、楽しんでやればつらさは忘れられる」
だからこそ、仕事は楽しまなければならない。
自分で能動的に、働きの中に楽しみを見つけなければならない。
能動的とは「自ら活動すること。自分から他に働きかけること。」である。
「仕事は楽しんでできなければすぐさま懲罰の様相を帯びる」
つまり、仕事を楽しむことができなければ「罰を受けているような気になる」のだ。
仕事に『能動的』に入れ込むうちに、承認される。
他者からの「承認」だけでなく、自分が自分自身を「承認」する。
「他人のための仕事」が、いつしか「自分のための労働」に変質するようになる。
生きている、それだけで、愛情を注いでくれ、認めてくれる存在が、かつてあった。
多くの場合、「親」がそうだ。
しかし、人間は肉親以外の承認を得なければ社会で生きていけないようになっている。
そして、仕事のみが、他者から承認を取り付ける契機になり得る。
しかし、「他人からの承認」に嵌まると危険である。
「他者の承認」が絶対に必要な人は、次々に承認を求めるようになる。
有名人になればなるほど、もっと有名になりたくなる。
Twitterの「相互フォロー」という仕組みもその「欲求」に応じたものであると感じる。
フォローが「もっと」欲しいのだ。
人間の欲求には限りが無い。
麻薬のようなものである。
私たちは社会で生きていく中で、自分で自分を認めてあげることが大事になってくる。
有名でなくていい、金もそんなに稼がなくていい、あるがままの自分でも、生きていていい。
自分で自分を認める。
自分で自分を承認する。
それが可能なのもまた、仕事を通してのみ、なのである。
「仕事ができる」
「仕事ができない」
は他者と比べなくとも、自分自身が一番知っているはずである。
仕事があるから生きていけるのだ。
仕事に感謝したい。