先日4月18日の日経新聞に『AI進化 人類の真価問う』というタイトルで、AIの言語能力の向上とその問題が書かれてあった。
近年大きな話題になっている『chatGPT(チャットGPT)』の存在は、すでに多くの人が知っているかもしれないが、これは言い換えれば、AIが人間をしのぐほどの高度な言語能力を獲得してきたということである。
記事には、ユヴァル・ノア・ハラリが「サピエンス全史」で、現生の人類ホモ・サピエンスが地上の覇者となった理由に「比類なき言語」を挙げているが、この10年でAIが追いてきており、人類が約40億年かけて築いた聖域に足を踏み入れたと書かれてあった。
私たちはAIとの共存を考える時代になってきたのかもしれない。
chatGPTの技術は確かにすごいと思う。
質問することに対して”何らかの”答えを出してくる。
決して読み物としては面白くは無いが、「間違い」とは言いにくい回答を出してくる。
学生のレポートなどに活用(悪用)されるのではないかと危惧されているようだが、文章の内容はさほど面白みはない。
それっぽい記事は出してくるが、普段から文章を読んでいる人は、内容の希薄さから、それをAIが書いたものだとすぐに分かると思う。
私はchatGPTを使いこなしているわけでは無いが、文章に「感情的なもの」を感じない・・・
何となく、「知識のある人」「知ったかぶりの人」と話している感じがある。
その人の言うことが正しい場合もあるし、嘘っぱちの場合もある。
ただ、そのやり取りの中で、自分自身に新たな発想が生まれる事もあるだろう。
chatGPTは、「おすすめするけど、どっちでも良いよ」的な答えを出してくる。
良く言えば「強調しない」が、悪く言えば「決めてくれない」のである。
このあたりは、AI言語を作った人がうまくコントロール(設定)しているのかもしれない。
「最後は人間が決めてね」という「余地」を残している。
この辺の塩梅(あんばい)が上手い。
アイデアの整理や拡張には使えそうであるが、そのままアウトプットして使うにはまだ難しいと感じる。
Twitterには『chatGPTを活用した記事の自動化・・・』といった文章も散見される。
魂の入っていない「それっぽい文字」が並んでいるだけの文章を作ってなんの意味があるのか・・・とシラケてしまう。
chatGPTを「尖すぎる利器」と警戒する人もいるようであるが、最後は道具を使う私たちがアップデートしなければならないのだろう。
『次の産業革命か』とも書かれてあり、chatGPTにより多くの業務が代替される可能性が示唆されている。
幅広い知識労働で雇用の減少につながる可能性があり、「AIの進化」が問うのは「人間の真価」と締められていた。
(この辺りのシャレが新聞っぽくて好き)
進化のスピードでAIに勝てないと気づいた時、私たちの強みが発揮できる部分は何なのか?
最後は人間の「愛」(AI)なのかもしれない。
(↑新聞っぽい?)